浅野多一様よりご寄稿ならびに絵画のご寄贈をいただきました

地域医療に尽力されてきた浅野クリニック様が、このたび54年の歴史に幕を下ろしました。院長の浅野多一先生は、診療所の開業から今日に至るまで、当院に協力いただき多くの患者様と向き合い、またご自身も病を乗り越える中で、医療の大切さと支え合いの尊さを体現されてきました。当院も大変お世話になりました。
また、閉院にあたり絵画4点を寄贈いただき、浅野先生が語るクリニックの歩みと当院への感謝の思いとして文章もお寄せいただきましたのでご紹介いたします。
「名古屋掖済会病院に助けられて54年」
~閉院のあいさつに代えて~
浅野クリニック 浅野多一
不思議な縁で始まった三ツ屋町での開業

昭和45年(1970年)の12月に浅野外科を開院していつの間にか54年が過ぎてしまいました。許可ベッド数7の小さな有床診療所でした。大垣市民病院の勤務が終わり、大学の医局に戻って医局在籍の折に、三菱重工業岩塚工場の中に診療所があり、その時代に医局の命でネーベンに半年ほどお世話になりましたが、そのとき2年先輩の故浅井喜久雄先生と出会いました。その帰り道が今にして思えば太平通り、もちろん道路はやたらに広いが砂利道でした。松葉公園の交差点を通って、国道一号線に出て自宅の熱田伝馬町まで帰ったわけで、中川区の現在の地に来るなんて夢にも思いませんでした。それがふとしたことから今の三ツ屋町での開業となった次第で、不思議な縁とでもいうべきか、自分の運命であったように思われてなりません。 当時、名古屋掖済会病院の脳外科に勤務していた親友の故田中良正君が、真っ先に院長の故太田元次先生のところに案内してくれました。院長室に入るや正に直立不動で挨拶をしたこと今でもしっかり覚えています。
3階の半分が我が家で、二部屋に家内と二人の娘の4人暮らし、夜中に救急車が入ればみんなが起きてしまい、暫く眠れないこともあって、大変に厳しい生活ではありながら、よく耐えて協力してくれました。自分は仕事であり、仕方ないけれども生活の一部を犠牲にしていたわけで、済まん事をしていたと申し訳ない気持ちです。とにかく院内に常にいることをモットーに、「来た患者は必ず自分のところで」の一念でやってきたおかげで患者数も増え2年後には少しばかり増築をして 15床となりました。
十二指腸潰瘍破裂と掖済会病院での緊急手術
人の一生というものそれほど甘いものではありません。開業後丁度10年のところで、医局時代からあった十二指腸潰瘍がストレスに耐え切れず、名古屋南部の医師会のゴルフの時に破れ、一つ間違えば命にかかわる危険に直面しましたが、山口喜正先生に自分の車を運転してもらって桑名インターチェンジまで、そこで救急車を要請、一路掖済会救命救急センターへ。運悪く胆嚢結石もあったがために先生たちの診断が容易に一致しませんでした。自分のことを最もよく知っていてくださった、当時名古屋第一赤十字病院院長の故服部龍夫先生に山口先生が連絡してくださったらしく、見舞いに行くという名目で来てくれました。早速腹を診察、すでに38度の熱発悪寒もあって、腹部にはデファンあり、直ちに手術と決定。田中良正君が枕元にきて、「この際遠慮をしないではっきりと誰に執刀してほしいかを言え。僕からきちんと伝えるから。」と。高熱と腹部の痛みで朦朧としていたが、「執刀は服部先生、そして第一助手は山口先生にお願いします。」とはっきり伝えました。
かくしてその夜に手術、胃切除術、結腸後ビルロートⅡ法での吻合術、胆のう合併切除がなされました。後輩のわがままな希望を快く許していただいた先輩方の恩情に深く感謝したものでした。
たくさんの先生に助けられた「がん」との闘い
次は平成19年(2007年)10月10日、人間ドックで左下葉に肺がんが見つかり、当時副院長の宮田義弥先生のご尽力で、名古屋大学呼吸器外科助教授の横井香平先生執刀で開胸、下葉切除をうけました。リンパ節への転移は見られなかったものの、臓側胸膜の直下まで忍び寄っている腺癌の組織標本を佐竹立成先生に見せていただきましたが、あの薄っぺらな胸膜が正に頑張って、胸腔内への播種を食い止めてくれていたものと、その幸運さをつくづく感じたものでした。術後経過もよく、ゴルフも再開しましたが、平成27年(2015年)12月、残っている上葉に異所性肺癌ができ、今度は名古屋大学医学部呼吸器外科講師川口晃司先生に上葉の部分切除術を受けました。術後の胸水が容易にひかず、器質化するまで相当苦労しましたが、何とか落ち着きました。しかし少し早く歩こうとすると息が上がってしまう状態です。それでも足腰の衰えを防ぐべくウオーキングに励んでいましたところ、夏の暑い日でしたが、荒子川ほとりのコースのあずまやで一休みをしないと続かなくなり、貧血に気がついて検便、潜血反応陽性 、直ちに大腸ファイバーを大橋暁先生にしてもらい、回盲部にボールマン2型のがんと診断され手術。山口直哉、加藤祐一郎先生に腹腔鏡下回盲部切除術。経過も極めて順調、昨年11月で5年経過、造影CTも異常なし。
掖済会病院と共に歩んだ54年に感謝
癌に対しての手術的挑戦3度に及ぶも、これに負けることなく現在に至っていますが、これも名古屋掖済会病院の外科のスタッフを中心とした皆さんの優れた医学的技術のたまものであると感謝申し上げます。名古屋掖済会病院の発展を目の当たり見てきましたが、特に現在名誉院長の河野弘先生が平成3年(1991年)外科医長として赴任されて以後の外科、消化器内科の充実ぶりは目を見張るものがあります。以来今日に至るまでどれほどの症例で助けていただいたか、枚挙にいとまがありません。いざ困ったら掖済会へ、どうにもならないときは掖済会へ、本当に公私ともども面倒をかけていましたこと大変申し訳なく思っています。
かくして昨年の12月28日を最後の診療とし、1月14日をもって浅野クリニックを閉院することにいたしました。なんとか恙なくやってこられたのも名古屋掖済会病院がバックにあったればこそであります。本当にありがとうございました。心からの御礼を申し上げるとともに病院の更なる発展を祈念してやみません。
2025年1月3日 浅野多一
ご寄贈いただいた絵画につきまして
当院一階渡り廊下ならびに、救命救急センター四階講堂前ホワイエにございます。皆様ぜひ足を止めてご覧ください。

